映画「高津川」【ネタバレ考察】
私は映画「高津川」を見た。
もちろん、きちんと自分でお金を払って見に行きました。そして、これは歴史に残る名作だ!と確信したのですが、一緒に見に行った友人がどうも斜に構えている。
「ちょっとなぁ〜 、主人公の守りたいものは守るとか、、、、おじいさんが、あいつは何を学んどったんか、、、とか、ちょっとセリフがありきたり、、、というか臭い気がするんだよなぁ」とか言っている、、、、アホである。
このアホに、映画「高津川」の素晴らしさを理解させるため、この考察記事を書くことといたしました、私なりに映画「高津川」を完全補完してみせますよ!
※ネタバレ満載なので、ぜひ映画を見てからご一読ください。というか映画を見てないと意味がわからないと思います。また記憶の齟齬で映画の内容と間違ったことを書いてしまう可能性もありますがどうかお許しください。
※画像は高津川公式ツイッターに掲載された画像を引用させていただいております。高津川のTwitterは以下のリンクボタンから、公式サイトはさらに下のボタンから。
甲本雅裕さんがすごすぎる!
映画の主人公「斉藤学」を演じるのは甲本雅裕さん。何度も見ると、甲本さん主演だからこそ、この映画が成立しているのだなぁとしみじみ思います。限られた上演時間で、登場人物の人となりだけでなく、「ここまでの人生」までも表現しきってしまう演技力は神がかり的でした。
私の友人はセリフが臭いと言いましたが、、、、
当たり前だ!
現実に、それこそ映画のセリフのごとくスラスラとうまい言葉が出てくる人間がどれほどいるというのでしょうか。
他人が聞いたらちょっと恥ずかしくなるようなセリフをつい言っちゃうときのあの感じ。
ああ言っちゃった、恥ずかしい(照)みたいな、そんなところも含めての演技なのです。
そう思って映画を見ると、甲本さんの一挙手一投足が鳥肌ものだと気づかされます。
学は、子供達がいつ出ていくと言い出すか怖がっている。
この甲本さんが演技で見せる「学の微妙な心理」を見逃すと、映画の魅力が半減してしまう気がします。
例えばこんなシーンがあります。
大野いとさん演じる娘の「斉藤七海」はUターンで地元就職し、自宅から通勤しています。学が牛舎で仕事をしていると、その七海から「おとうさん、ちょっといい?」と話しかけられるシーンです。
この時、仕事中に突然声をかけられ驚いたのか、学は直立不動で返事をしません。
従業員の女性(友利恵さん演じる「佳奈」)が「変わります」と言ってくれるのでようやく動作しますが、何の話をされるんだろうという不安が全身から溢れ出ています。挙動不審です。
何も悪いことはしていないのに警察から「ちょっと話があるんですが」と、言われたらこんな感じになるかもしれません。
七海は、ただ弟のことが気になって話しかけたという感じなのに、娘の改まって「お父さん話があるんだけど」的な雰囲気に戸惑ったのでしょう。
学は、地域に残って「働く・暮らす」という選択を、自分の子供に強いることに自信を持てずにいて、娘や息子が出ていくと言い出したらどうしよう。と、どこか心に不安をかかえているのだということがよくわかるシーンだと思いました。
そうでなくても、別のシーンで、息子に話しかけるとき「手袋を力いっぱい外して」ちょっとだけ勇気を出して向かっていく様子などは、思春期の子供さんがいる方なら「気持ちがわかる」んじゃないでしょうか。
思春期の男子は「ちげえし」とか「あぁ」とか「っ」くらいしか返事をしないので何を考えているかわからんのです。
そういう意味では高校生の息子「竜也」を演じた石川雷蔵さんもたいした演技力です。
学は、自分の母親に対しては強気ですが(みなさんだいたいそうですよね、お母さんを大切にしましょう!)、自分の子供に対して必要以上に気をつかい、特に息子の「竜也」に対しては避け気味な感じさえします。なぜそこまで……
その理由を映画で一瞬映る「仏壇」から読み解いてみます。
学は「父」がおらず、「妻」を若くして亡くしている
映画には、奈良岡朋子さん演じる学の母「斉藤絹江」は登場するものの、学の父親は登場しません。すでに亡くなっていると考えられますが仏壇には、学の妻の遺影だけ。
その妻の遺影は若く年齢は20代〜30代前半に見えます、つまり子供がまだ物事つかないうちに亡くなったのかもしれません。
妻の写真はあるのに、父のは置かないというのは考えにくいので、まさか写真が一般的でない時代に亡くなったということは無いと思いますが、少なくとも学の妻よりも前、妻の写真と入れ違いにしてもいいくらい前、父親もかなり若いうちに亡くなったと思えるのです。
学はおそらく早い段階で父親を無くしたものの、子供の頃から神楽に参加することで、おっちゃんと呼ぶ同級生「大庭誠」の父親「正」や、神楽に関わる大人たちに地域ぐるみで育ててもらったのでしょう。
そして、自分自身は母の力も借りつつですが、男手ひとつで2人の子供を育てた。朝も夜もない酪農経営の傍らにです。楽なことでは無かったでしょう。
高津川が流れ神楽のあるこの土地は、父と妻が生きていた土地。
学が精一杯生きてきた土地。
だから学にとって、神楽は「誇り」であり「守りたいもの」なのです。
そして息子と娘がもし、この土地を離れ都会で生きていくことを選択してしまえば、それは学と共に生きた人々の、この土地に残る様々な記憶がまるごと失われてしまうことを意味します。
学が七海に、
「おまえのかあちゃんは、ある日急に思い立って、竜也の鎧下を縫っっとった」
と語るシーンがあります、ほんの数秒のセリフですが、亡くなった自分の妻はまだ物心つかない息子のために、神楽の衣装を縫っていた。かつて自分が自分の母親にそうしてもらったように。
その母も、またその母も「きっとそうだったはず。」そんな綿々とした幸せと思える記憶の継承がそこで途絶えてしまうわけです。
映画「高津川」には、こういう深いテーマを持った重要に思えるセリフやシーンが、さらっと押し付けがましくなく組み込んであるのですが、そこを重々しく思わせないように構成されているので、私の友人のように斜に構えて見ていると見終わった後の感想が、まったく平凡なものになってしまう恐れがあります。
実際、上記の学と七海のシーンの後、七海が竜也に「天国のお母さんに見せたくないの?」と神楽の練習をするように説得するシーンがあるのですが、ここでは見ていて「そういうことならモジモジしてないで神楽やればいいのに」と七海に同調してしまいますし、七海自身もそこまで深く考えて説得している感じじゃない、若い時特有の正義感、純粋な気持ちで弟をたしなめてる感じです。そういうシーンを挿入することで、映画全体を優しいものにしている。
しかし、竜也はいろいろわかった上で悩んでいる。
家族からの期待は十分理解しているつもりなのに、竜也からしたら父親の学の方こそ何を考えているかわからないので、悩んでいる、そう考えると一気に面白みが増します。
映画中盤の竜也と学のやりとりは必見です。ここは竜也の方から学に歩み寄るんですね。勇気を出して向かってきた学に対し、さらに勇気を持って自分の考えを伝える竜也。
「おれ……やるよ」映画の中でも一番かっこいいセリフです。
高校生にもなればみんな自分の考えをしっかり持っているものです、一見冷ややかに見える子でも熱い心を持っていたりする、親の方が心を開いて自分自身の話をしないから、うまくいかないのかもしれません。
私の友人は、なぜ主人公の学が、神楽や高津川に思い入れが強いのか理解しようとせず、ご都合主義的に捉えていたため、映画を臭い、ありきたり、と表現したのだろうと思いますが、浅はかな男です。もう1度言いますが、アホである。(ちゃんと友人本人にアホと書くことを了承済みで文章を書いておりますのでご安心ください)
正は「父」も「長男」も高津川に奪われた
学がおっちゃんと呼ぶ、同級生の「誠」の父親「大庭正」。
正が、戦争から帰った父が高津川の反乱で復員後まもなく死亡したことを学に話すシーンがあります。
そして、映画内でしばらく間を置いて、学と誠のやりとりの中で「誠の兄が高津川で溺れて死んだ」ことが明らかになります。
見ているこっちとしては、シーンとシーンの間に時間があるのでうっかりしてしまいますが、正は「父」も「長男」も高津川に奪われているのです。
心の傷は誠の比ではないはずで、映画の登場人物の中で最も高津川を憎んでいてもおかしくはない。
しかし、自然と共に生きること、川と共に生きることを、いいことも悪いことも全て許容し……許容するどころかその恵みに感謝し生きている。
たしかに自然は情け容赦なく、ときに残酷です。でも、どんなに自然が残酷でも人はそれを受け入れて生きていかなければならない。
これは自然災害の多い日本どこに暮らしていようとも共通のテーマと言えますが、錦織良成監督が、映画を見た人に伝えたいメッセージのひとつが「正」の存在そのものなのだと思います。
そしてそれを声高に主張するわけではなく、そっと染み渡らせる。
この「正」が語るからこそ「大事なことを教えなかったわしらのせいじゃないかと・・・」などのセリフに重みがあるのです。
正は、毎日高津川を眺めながら孤独に過ごしています、正のような考え方、地域を日本を豊かにしようと、子どものため未来のために必死に働いた人生は、置き去りにされ忘れ去られようとしているのです。
その点、私の友人は、、、いや、友人のことはもういいですかね、アホだけど。
誠は、誠なりの葛藤を抱えている。
田口浩正さん演じる「大庭誠」は、父「正」を故郷に残し、都会で弁護士として働いています。
学は終始この誠に気を使って接します、同窓会に帰ってきてほしいと言うだけなのに、なんでそこまで気をつかっているのかな……と思いながら見ていたのですが、前述のやりとりでの誠のセリフ「兄ちゃんを殺したのは……俺だ」ではっきりします。
誠が都会に出ていって帰ってこないのは、兄が高津川で溺れて死んでしまったのは自分のせいだと思い込んでいるから。忘れてしまいたい過去がここにあるからなのだということがわかるのです。
そりゃあ簡単に帰ってこいと言えないわけだ……。
それでも、これ以上逃げ続けていてたら一生後悔するという限界点で、学は誠と対峙します。
自分の過去から逃げ続けることはできない、特に、歳を重ね人生の後半にさしかかった時、自分のルーツに背を向け逃げ出した状態では、アイデンティティクライシスとでも言うのでしょうか「自分はいったい何なのか」という問題に直面せざるを得なくなると思うのです。
そういう場合、ほとんどの人はこのルーツから目を背けたがゆえに起こる「自分はいったい何なのか」という疑問を直視せず、意識せず、普段はまったく気にしないようにしながら忙しい毎日を送っているのではないでしょうか。
誠のセリフは、途中までほとんどが現代のステレオタイプで、私はよくわかってますよと言わんばかりの正論です。(映画を見終わった後だと、そうしないと自分を守れなかったのかなとも思いますが)今はみんなそんなもんです、利益や権利が軸なら誰もがそう言えるだろうな。という感じです。
「違う!」と学が言います。本当に「違う」からなんですね。これはその後に続くセリフとは分けて考えた方がいい一言だと思います。「違う」んです。
自分をかわいがってくれた両親がいる。そして、その両親にも親がいる。他人もみんな一生懸命に生きている。
当たり前だからこそ 忘れてはいけない 大切なことがある。
映画のチラシに書かれたコピーですが、これはひとつは誠に向けて書かれた言葉でしょう。
誠は映画の後半、つきものが落ちたかのように無邪気な子供っぽい様子で描かれるのですが(革靴で走ったり、運動会の後は学や他の友達をほっぽらかして姿を消す有様です)この極端すぎる様子がアイデンティティを取り戻しつつある誠の喜びを表しているのだと思うのです。
陽子も愛する人との別れを経験している。
それぞれに大切な人を失い、だからこそ、この地と共に生きている「学」と「正」。反対に出ていく選択をした「誠」。
そして、この3人とは違った形で大切な人を失い、それでも地域で生きていく選択をした登場人物が戸田菜穂さん演じる「大畑陽子」です。
母を介護し、父から家業を継いで生きていく選択をした女性。子供が女の子だけの家庭では、この「陽子」の状況は心に響くのでは無いでしょうか。跡取りの問題は、当事者にならないとわからないものですが、たいへんな問題です。
途中、陽子が結婚までいきかけた(いい話があったのに結局結婚しなかった)という話が出ます。
映画では陽子のいないシーンでこのセリフが出る上に、誠が空気読めないヤツという感じが強調されているので、陽子のことに考えを巡らしずらいですが「愛する人」と「実家の家業・親の介護」とで選択を迫られていたということがここで初めてわかります。
そして選択した結果「愛する人」は失った。
陽子は自己主張しない、とても控えめな女性で、映画の中でも自分の希望はささやかにしか他人に伝えません。
「手、つなご」とか
ほとんどが、自分の主張より相手のことをきちんと考えた発言しかしない。
そんな陽子の最後のセリフは
「じゃあ……わたし帰るね」
です。
帰るのか!!!!
ここはクライマックスのシーンなので、映画を見ていない方には読まずにスルーしてほしいですが、私の見たところでは映画「高津川」で「学」の希望はだいたい叶うので、これは「学」にとってはハッピーエンドと言ってもいい映画です。
ですが、陽子にとってはどうか……これは……わからない。
映画を見終わっても、わからない。
陽子にとっては映画の終わりが始まりという感じで、わからないけど、放っておいたら陽子が不幸になる気がする。
気が……
いや、いや、陽子はおもいやりにあふれた芯の強い女性。
一度覚悟を決めた自分の選択を後悔して、自分が不幸だなんて思うことは無いはず。
でも「じゃあ……わたし帰るね」と帰っちゃう、大事なところで相手のことを考え遠慮しちゃう控えめな人生。
ほんとにそれでいいんですか!???……なんて、他人からいろいろ言われると、これはまた苦痛なんですよね。
映画を見た方にはわかると思うんですが、私は陽子に幸せになってほしいと心から思いましたよ。
毎日を何気なく過ごしていると
足元にある小さな幸せに
気づかないものだ
陽子に幸せになってほしいと思ったところで、映画の冒頭、学の声でのナレーションを思い出しました。上記です。
見終わったころにはうっかり忘れてしまいそうになりますが、映画を通してナレーション的に声が入るのはここだけなので、かなり意図して挿入されたものだと思います。
特に、この映画は何かが先に提示されて、その意味するところがシーンを挟んで少しづつ提示されるので、問題にも解答にも気づかないようなつくりになっています。
それが、静かに問いかけるような全体の雰囲気につながっていると思うのですが、そうすると、映画の冒頭に挿入されたこのナレーションは、映画を見終わった我々に対する問いだと思うのです。
もちろん、何を幸せと思うかは人それぞれ。
だからこそ、です。
映画を見終わった時、見た人はきっと自分の声を聞くことでしょう。ほんの少しだけかも知れませんが、自分の心が何かを伝えようと、あなたにささやきかけてくるはずです。
映画はエンターテインメントであると同時に、芸術表現です。芸術は、自分の心の声に気づくきっかけを与えてくれると私は思います。自分の中の声なき声を聞く、そういう力が映画を含めた芸術にはあるのです。
勇気をもらって元気になったり、共感して涙したり。
作家カズオ・イシグロさんのノーベル文学賞受賞理由は「世界とつながっているという幻想的な感覚にひそむ深淵を明らかにした」なんだそうです。映画「高津川」にも同じものを感じます。
映画を見終わった後、あなたはあなたの心のどんな声を聞いたでしょうか??
それが…… 映画の宣伝で使われているこの言葉……
きっとあなたの物語。
…… なんだろうと思います。
映像が綺麗です。
長々と大変申し訳ありませんでした、ついつい書きすぎてしまいました。駄文を全部ちゃんと読んでくださった方がいたら、何か差し上げたいくらいです。ありがとうございます。
まだまだ書きたいことはあるんです、駿のこととか。
とはいえ、この映画「高津川」。難しく考えて観なくても、高津川を中心とした島根県西部の風景はとても美しく、それに加えて「神楽」石見神楽を映画館のスクリーンで見れる。面や衣装も綺麗です。それだけでも見に行く価値アリだと思います。
私が観たのは出雲の劇場でしたが、広島の八丁座ではさらに盛況なのだとか。都会に暮らすみなさんに響くのかもしれませんね。
今は中国地方のみでの公開ですが、好評を経て、4月からは全国ロードショーも決定しているようです。島根県の映画ですから、大ヒットして、高津川と豊かな自然が有名になるといいなぁと思います。
ちなみに出雲市を流れている川に「高瀬川」というのがあります。この川は出雲市の偉人「大梶七兵衛」が……、
すみません、最後にまったく関係ないことを言って出雲のPRをしようとしました。
高津川と高瀬川はまったく関係ありません。
2020年、映画の大ヒットを祈りつつ
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